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二俣簡易裁判所 昭和32年(ろ)68号 判決

被告人 原群治

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実の要旨

被告人は軽自動車の運転者であるが、昭和三十二年八月十四日午前十一時三十分頃軽自動車を運転し時速約三十五粁の速さで静岡県磐田郡水窪町奥領家七〇二二番地の二地先林道(巾員五米)を小畑方面へ向つて進行中、二、三十米前方の進路左側を同一方向に向つて歩いていく耳塚春吉(当時数年八十一)を発見し、その右側を追越そうとして其際警笛を一回鳴らした。しかしこのような場合自動車運転者は二、三十米前方で一回警笛をならしただけでは歩行者に突然右へ寄られる虞があるからその後同人の後方近く迫つたとき更に一回鳴らして安全を確認し亦その安全確認までは危険な際に直ちに停車できるようにその速度を落して徐行し事故を防止する業務上の注意義務がある。

被告人は右の注意義務を怠り前記速度のまま進行したため耳塚の四、五米手前に至つた際同人に突然右によられ直ちに停車措置をとつたが間に合わず自車を同人に接触させ同人をその場に転倒させ頭蓋部打撲脳損傷の傷害を負わせ同日午後八時十分頃死亡させるに至つた。

二、証拠によつて確定される事実

当裁判所は取調べた証拠によつて次の諸事実を認定する。

(1)  被告人は昭和二十九年十二月に軽自動車の運転免許を受け本件事故当時ホンダドリーム号五七年型軽自動車を所有し、事故現場附近をしばしば運転通行して附近の状況にも通じていた。当時右車に不備故障はなかつた。またその車の警笛は普通軽自動車につけてあるものより大きな音のでるもので、トラックのと同じものである。

(2)  昭和三十二年八月十四日被告人は右軽自動車を運転して自宅から静岡県磐田郡水窪町本町の鈴木病院へ行くため水窪川に沿つた林道を西進し午前十一時三十分頃本件事故現場である水窪町奥領家七、〇二二番地の二地先附近にさしかかつた。

その際(当裁判所の検証調書の(ヘ)点において)約五〇米前方((ニ)点)に一人の通行人を認めた。同人(後で耳塚春吉当時七十八才であることがわかつた)は一見中年以上の年輩にみえ道路の左側から約七〇糎入つた左側を同一方向に向つて歩いていた。そこで被告人はさらに十数米進行したとき((ホ)点において)一回警笛をならして同人に自車が進行していくことを知らせた。その時両者の距離は約四〇米である。そして被告人は当時時速三五粁の速さのままで約五〇米前進した際((ハ)点に至つたとき)、それまでずつと道の左端を歩いていた右耳塚が道端((ロ)点で道の左端から五〇糎入つたところ)から突然早足で道路の中心部へかけだしてきた。その附近は道巾が約四・六米あり、被告人はほぼその中央部の多少左寄りのところを進行していた((イ)点で言へば右端から約二・六米左端から約二米)。耳塚が突然右へかけ出す前の同人は道の左端から約五〇糎入つたところにいた。したがつてそのまま進行して両者が並んだとすればその時の両者の間隔は約一・五米になる。

被告人は耳塚が右へかけだすのをみて危険を感じ急ブレーキをかけて停止しようとしたが既に両者の距離は約三米位にまでせまつていたため間に合わず被告人の車と耳塚とが衝突し、その衝撃で同人がその場に転倒し頭蓋を打撲したことによる脳損傷のため同日午後八時十分死亡するに至つた。

(3)  耳塚春吉は当時満七十八才の老人であつたが、体の大きないたつて丈夫な人で事故の前日まで山へ行つてノコギリやナタを使つて山仕事をして居り、それで一人前の賃金をもらうことができたほどである。耳は、家族耳塚きぬえによれば別に遠いことはないが岩本弘によればいくらか耳が遠い気ぶりがあつて普通より大きな声でなければ聞えない。もつとも当時お酒を飲んでいたせいかも知れないという程度である。従つて慣れている家族の者には耳が遠いとも思われないが、話しなれていない者には多少遠いと思われる程度であつたと認められる。道を歩くにも山道のほかは杖も使わずむしろ胸をはつてそり返つたような姿勢であつて、一見これ程の老人とは思われない位である。(腰をまげヨボヨボとしてはいない)従つて当日乗馬ズボンにシヤツ、ゴム草履、手ぬぐいをかぶつて杖もつかず手に荷物ももたないで歩いている耳塚を被告人が老人と思えなかつたというのも無理からぬことである。

当日はお盆であつたので自宅から約半里位だつた岩本弘方までお参りに行き同人方で約三時間位をすごし、その間一合たらずの酒をのみ自宅へ帰る途中本件事故に合つたものである。岩本方を出るときは酒に酔つた様子もなく、バスえ乗つて帰るようにという奨めをも断つて、昔水窪川で材木の川流しをしたり、その対岸の山で山仕事をしたりしたその場所を眺めるために歩いて帰える途中のことであつて、その為道路の左側(水窪川に沿つた側)を道端に沿つて(左端から五〇糎位入つたところ)左側の下方にある川や対岸の山を眺めながら歩いていたものと思われる。したがつて後方から走つてくる被告人の車の警笛やエンヂンの音に対して気がつきにくい心理状態にあつたと認められる。

(4)  本件現場道路は林道であるが、国鉄バスが毎日数回往復する路線で、路面の状況は悪くない。附近にゆるやかなカーブが二、三あるが見通しは悪くない。附近には住宅は現場のすぐ西方、道路の左側に一軒あるだけで、右側にはない。また附近に右側へ曲る道もない。耳塚の家は現場からこの道をさらに数百米西へ行つてから右の山手の方へ上つた所にあるのであつて、同人はなおこの道を歩き続けるはずであつたと思われる。その他附近には同人が道の左側から右側へ移ることを推測される状況は認められない。

当裁判所が検証に当つて見分した結果によれば、附近は車馬の往来も人間の通行も少なく山と川に挾まれた静かな所で、僅かに川の流れがきこえる位にすぎない。当時試みたところによれば警笛が数十米先まではよくきこえ、又エンヂンの爆音もそうであつた。

三、公訴事実に対する判断

右に認定した諸事実にもとずいて、被告人に公訴事実の中に掲げられたような業務上の注意義務違反があつたかどうかを判断する。

検察官は数十米(右に認定されたところによれば約四十米)前で一回警笛をならしただけでは足りず歩行者の後方近く迫つたときもう一回ならすべきであり、それ迄は歩行者が突然右に寄られる虞があるから危険な際直ちに停車しうる程度に減速すべきであるという。

(1)  しかし右に認定したように被告人は四十米へだてて警笛を一回ならした。

その警笛は軽自動車としては普通より音の大きなものであつたし、現場の状況からしても優に被害者に聞えうる筈であつた。その上引き続いてかなりの爆音がしていたわけで、他に通行車もなかつたのであるから、それだけでもつて被告人が自車の進行していくことを知らせることができたと考えたのは相当であると認められる。それに耳塚は引きつづき道の左端をそのまま進んでいたのであつて、被告人の車をよけるために別段の動作にでるまでもなかつたのである。そして被告人が通過するに十分なだけその道の殆ど全部が開放されているのである。

もつとも前を歩行しているのが幼児、子供とか或は一見老人と見える人で、予期しがたい行動にでる虞がある場合はまた別であるが、耳塚の場合は年のわりに頑健でさほど老人であるとも見えず、酔つている等正常な注意を欠いているともみられなかつたのであるから、被告人に特別の注意義務を要求すべきではない。

また耳塚の行動のなかに突然右の方へかけ出すようなきざしがあつたということは検察官も主張していない。むしろ経験則上一般にそのような虞があると主張するのであるが、幼児とか酔つぱらいとかでない普通の人の普通の場合に(本件のように一本道で右え曲ることの考えられぬ場合はなおさら)そのような経験則があるというべきではない。

耳塚が後方をふりかえらなかつたということも本件のように道路の端を歩いていて、道路が殆ど開放され障害のない場合に、それを耳塚が警笛に気づかなかつた証左とみることはできない。

もとより道路を進行する車は当然その前方の安全を確認して進むべきであつて、被告人の場合も同様であるが、右に述べたような状況のもとにおいて本件においては四十米前方で警笛を鳴らしたことによつて耳塚に対するその義務が果されていると認めるべきである。

(なお四十米前方というとかなり遠いようであるが被告人が被害者を発見してから衝突するまで約七〇米を走るのに時速三十五粁だと七秒位しかからないことになる)

(2)  次に被告人が引続いて時速三五粁の速さで耳塚の右側を通過しようとした点についても、

(イ)  右のように前方の安全を確認するに足るだけの手段をしていること。

(ロ)  耳塚は依然として道の左端を同一方向へ歩きつづけその右には約四米巾の通路が残されていること。

(ハ)  被告人はその通路のほぼ中央、つまり耳塚と並列した場合にも一・五米の間隔がある位の所を通過しようとしたこと。

(ニ)  耳塚には右へよるようなキザシは認められず現場の状況もそのようなことを予想すべきものでないこと。

(ホ)  道路の見通し、カーブの状況、路面の様子からして三十五粁の速さが危険であるとは思えないこと。

等のことを考えると、高速にすぎたとして非難するのは相当でない。

(3)  むしろ本件事故は耳塚が水窪川や対岸の山林を眺めながら昔をおもい今をおもつて気をとられていた為、被告人の車の警笛や爆音に気ずかず、間近に迫つてから突然気づいて我に帰つたが突嗟のことであわててしまい、急に右えかけ出すという予期しがたい不合理な行動に出たことに起因するものと思われる。一合たらずの酒がきいてきた為の注意力の散慢もあづかつて力があつたかもしれない。

とすれば本件事故の原因を被告人の側の過失に求めるべきではないことになる。

要するに本件公訴事実は罪とならないと言わなければならない。

そこで刑事訴訟法第三百三十六条にもとづき被告人に対して無罪の言渡をする。

(裁判官 水上東作)

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